昭和45年 1月14日 朝の御理解
御神戒一 神国の人に生まれて神と皇上との大恩をしらぬこと
「神国の人に生まれて神と皇上との大恩をしらぬこと」と御神訓の、御神戒ですね、御神戒の第一条です。神国の人に生まれてという事は、神が「創造?」したもう、んー、という事、ね、これは世界( ? )天地宇宙一切ひっくるめての、んー、神国の人というのはだからこれは、日本人だけではない事が分かります。ね、この世界の隅々に、ん-、生活をしておる人達はみんな神の国に住まわして頂いておるのです。生を受けておるのですね。「神と皇上との大恩しらぬ」ことと、ここでは神という事を、「皇上」と書いてありますね。( ? )と、ま、天皇陛下を指したもと思います。けれどもそれはその時の事であって私は、( ? )これは国の、まー、長と、いわゆる大統領なら大統領と言ってもいいのじゃないかと思いますね。または、神様、金光様の御信心を頂くものはね、この神と皇上ということは教祖生神金光大神と頂くべきじゃないかと思いますね。天地金乃神様、また、その天地金乃神様のおかげを知らせて下さった、教えて下さった、教祖、だから仏教の方はお釈迦様といっていいだろう、キリスト教の人はここんところをキリスト、イエスキリストというてもいいと思うですね。その、私どもでいうなら天地金乃神様と教祖の神様の大恩をしらぬ事と、その、大恩を知るという所に信心があるのですね。大恩を知る、またの御理解に、ん、「神の大恩をしらぬから互い違いになってくる」とおっしゃておられる所がありますね。御理解。だから、神の大恩をいわゆる神と皇上との大恩を分かるという所にえー信心が、えー、習うより慣れよという言葉がありますよね。けども、これは習うなという意味じゃないのですよ。習うたうえにもそれをいよいよ自分のものにしていく為には繰り返し繰り返し慣れていく事だと。そして初めて、あーそうだったかと分かるのです。ね。ですから金光様のご信心はどこまでも一つ、その、習うより慣れよと、もちろん習わせてもらわないかん。それを本気で行じさせてもらわなければいけん。繰り返し繰り返し、そこん所がね繰り返して行くうちに分からせられるのがここなんです。「神の大恩」なんです。または、皇上?の大恩なんです。または、いわゆる、教祖生神金光大神の大恩なんです。だから、その、神の大恩が分かるから、ね、その大恩に報い奉ろうという姿勢が信心なのです。本当は。ね。だから、神の大恩が分かるために「習うより慣れろ」であります。ね。それは、なら、習うなじゃない、毎日毎日こうやって御教えを頂いておる。その、御教えをです、自分の物にしていくというか、こなしていくというか、自分の血に肉にしていくうちにです、分からせられるのがここ、私は御神戒第一条だとこう思います。ね、なるほど、天地の親神様のおかげを頂かなければ、一日どころ、一刻足りとてもです、私どもはこの世に生を受けておるという事すらが許されないのです。ですからその、言葉でね、そこを説明して頂くだけならね、あの、すぐ分かるんですそうだということが。けれどもね、習うより慣れろであって「慣れる」。本当に自分の物にするといわゆる実感ともうしますわね、実感として神の大恩が分かる。ね。だから、ま、おかげを受けて無い命を助けて頂いたとか、もう、本当にお葬式をする寸前というような人が、神様のお徳によって金光大神のお取り次ぎによって助かる。または、どうにも出来ない問題がです、神様のおかげで解決のおかげを頂くいわゆる不思議な不思議な働きの中にそういうおかげが頂ける。そういうおかげを頂くということによってですね、私どもは神様の大恩をだいたい分かっていかなければならんのですけれども、中々、喉元通れば暑さ忘れるて、あんた、あん時には本当に神様のおかげで助かったとよと、あんとき医者はなんというた、もうこの病気は助からんと、親戚のものにも引導を渡された。それが不思議におかげを頂いたんじゃないか。ご恩どん忘れよったんじゃ本当罰があたるよと例えばいくら言われてもですよね、それが喉元通れば暑さ忘れるでだんだん薄いものになっていくとするならですね、つまりません。私どもはそういう例えばおかげだけを手がかりにですね、おかげだけを手がかりに神様を分かっていくことは非常にこれは危険です。そういう御利益だけを手がかりに信心を分かろうという事は、いざというときにもろい。ね。そこでです( ? )おかげを手がかりというのではなくてですね、いわゆる信心を手がかり。いうならば、本当な事を分からせて頂く。それを、「真理」という風に申します。その真理、真の理を持ってです、真の理から入らせて頂いた信心、真の理から分からせて頂いた天地の親神様であり、教祖生神金光大神であるということになりますとね、それは、非常に強いものになってくる。本当の事が分かっていくのですから。一つ一つ、本当の事が分かっていく楽しみ、喜びがあるのです。そこにです「習うより、慣れろ」という事になってくるのです。
「習うより慣れろ」という事は習うなという意味じゃないです。こうして、習わせてもらう、だから習わせて頂いた事をです、繰り返し繰り返しなれていくのですから。そして、体得するのです。仕事が仕事を教えるというようなものです。本当な事が本当な事を又教えていく、もらえるというのが私は信心のけいこだとこう思います。
誰でも御利益、又は、おかげ、そのおかげが確かに頂ける、頂けるから有難いや、勿体無いやという風なね、おかげが頂かなかったら、有難や、勿体無いやも出てこなくなってくるのですよ。ね、ですから危ないでしょうが、御利益というものが手がかりに神様の大恩を分かっていこうということは、いくと言う事は、これは、信心がね、それは浅い事になるのです。「神の理」「真理」というてもいいです。その真の理が、私どもが頭で分かっただけではない、耳で聞いてああそうかと思う程度のことではなくて、分かった事を繰り返し繰り返し自分の物にしていく。いわゆる、「習うより、慣れていく」という所にです、もう動かす事の出来ない、ね、どういう事が有っても、「絶対信」というものが生まれてくる、「絶対信」どのような場合でも息詰まらない。昨日13日会に福岡の古屋さんが合楽の椛目時代に一番始めに御神縁を頂いた時に、ある教会に御神縁を頂いておられて古屋さんそこのお教会の総代をなさっておられましたがね、当時は所が大変息詰まって、もう本当に一家心中でもせなならんちいうごたる問題がその起きてきた。たまたまここの事を聞かれたり、又は思い出された、福岡時代に知っておりますから。そして椛目にたずねてみえたのが初めてでした。「大きな信心せにゃんばい」「大きな信心してから、大きなおかげを頂いて、大きく御用にたっていかなきゃなと」と、ま-これは先生がそういう風に教えられる。確かにそうなんだ、「大きな信心せにゃの、小さい信心じゃつまらん、大きな信心せな、大きなおかげ頂かなん、そして大きく御用に立っていかなん」とこういう事です。そして実際大きな御用に立っていきたいと思うんだけれど、このように行き詰まりに息詰まったら御用もなんもあったもんじゃない。というような意味の事のお届けがあったと私は記憶しとります。私は昨日それを聞かせてもろうて、はあーほんにそんな事があったなあと思うた。そん時にお取り次ぎを願われて頂かれたご理解がですね「大きな信心とは大きな御用をさせて頂くという様な事じゃない。大きな信心とは、古屋さん、息詰まらない信心だ」と頂いた。もうそれを頂いた時に「椛目の信心は素晴らしい」とその時思うた。「大きな信心とは、どのような場合でも息詰まりがない」その息詰まらないという信心がです、今日私が言うんですね。おかげを手がかりとして生まれた信心ではなくて、本当のことが分からせて頂いての信心になる、どんな場合でも「絶対信あるのみ」いわば、全てが神愛とここでは申しますよね。「神愛」と分からしてもらうと言う事。それにはです、その事をです、私が説明する事は見やすいです。ね、神愛じゃろうがと。ね、これがほんなこつやろうがと。説明すれば分かるです。けれども、説明を受けて分かった、そうだというのはそれはもろい。そこで「習うより慣れよ」という本当に、自分の図からその御教えに取り組んで、そこから生まれてくるもの、そこから、宗教的にいうなら悟らして頂くもの。ね、そこで、私は今日皆さんに分かって頂きたいのはですね、「もらう事よりも与える事の出来る信心を頂け」と。「もらうよりもね与える事の出来る信心」。私共はやはり信心の初めは様々な難儀が原因でどうぞ、右になりますように、左になりますように、どうぞ、痛うございます、痒うございますのことから私共はお取り次ぎを願わせてもらうのですよね。私は今日改めてえー素晴らしいなあとあれだけの大きな御比例を輝かされた、当時日本一と言われた大阪の玉水、現在でもやはり日本一( ?)御比例が輝いております教会です。大阪の玉水教会っていう教会長、先代「湯川先生」っていう方がおられました。あちらは、皆さんもご承知のように、商売人の町といわれるくらいな町ですから、もうほとんど商売人が多い。その参ってくる信者氏子達にですね、ですから、もうほとんど金銭関係なんですね、手形が落ちませんとか、もう倒産しかかっておりますとかといったようないわば難儀な問題を持ち込んで来るわけです。それに対してですね、教えておられる事がね、「今まで自分がこの会社の社長であった、この店の自分が主人であったという思いを捨てよ」というておられますね。「どこまでも御主人は神様だと」「社長は神様だ」と「あんたは一支配人にすぎない、一店員に過ぎない、家内はそこの女中さんと思え」というのが湯川先生の筆法だったわけです、おかげを頂かせてくださる筆法だった。そのことは私はそうさほどには思わなかったんですけど、今日はね、これは素晴らしい事だと思わせてもらいます。「今まで自分が社長であったが、神様が社長さん、今まで自分がこの店の大将と思うておったのが大将は神様だ」と分からせてもらうという事。ですからね、その辺からね例えていうと今日は私が申しますと「もらう信心ではなくて、与える信心の入り口」があった訳なんですよ。普通ではどうぞ手形が落ちますように、どうぞ倒産しかかっておりますからまたおかげを頂きますようにとま、言う風にお取り次ぎを願ってお願いするでしょう。ところがね、玉水の先生は「あんたが主人じゃない、あんたが社長じゃない」といわれるのですから。「神様が社長さんですから、神様が亭主ですから」ね、お取り次ぎを願うでもです、どうぞそうして下さいと言わん。今日はどこどこに神様いわば今日はどこどこに社長さんどれだけの手形がありますよというとけばそれでよかっちゃけん。ね、「あなたのお店がもう倒れかかりよりますよ」というてそれでいいわけなんです。そこにですね「もらう信心ではない」ということが分かるでしょうが。どうぞこうしてください、ああしてくださいと、いうじゃあない。もう、本当に私は今日はその湯川先生のその教導ぶりというものはね、そこをふんまえての教導であったと、そこがわかっておられての教導であったんだなということを改めて感心いたしました。私共の信心はいわばもらい信心から始まった。いつも初めからどうぞ病気を治して下さい、どうぞお店が潰れずにいきますようにという、願いの信心から。だから、お取り次ぎを頂く事はですね、同じような事であってもですね内容が違うわけです。今日は何処何処にいくらかの借金払いをしなければなりません、どうぞ集金がよりますようにじゃない。だから、何処何処に今日はいくらいくら、お払いしなければなりませんよ神様という風に、まあ言っておる、自分はだからそこの番頭さんですからね、神様が右に行け左に行けとおっしゃるとうりの事を動かせてもらうという事になる訳です。ね、確かにそうでしょう。もう実に分かりやすく素晴らしい、いわばその与える信心を一番始めから教導しておられるという事を感じます。いうならば「乞食信心」ではなかったということなんですね、食を乞うのが乞食なら、おかげを乞うのが私は乞食信心だと思う。なるほど、乞うから与えられます。食を乞うから与えられます。けれどもね、それではそうたいしたよいものはもらえはないですよね。そうでしょうが、乞食が食を、ならあまるものがあるけんでそれなっとんやれということでしょうが。だからね、「乞食信心」では本当によいおかげがもらえるはずが無い。まずは、ここが一つわからにゃいかん。ね、( ? )から( ? )からおかげをくださるというおかげではなくて、今日のいわゆる本質の所に入っていくわけです。本当な事を教えてもらい、本当な事を分からしてもろうて、ね、それを習うよりも慣れて行く所から、神の大恩が分かる。または、皇上の大恩が分かる。今日はそこん所を天地の親神様の大恩が分かる、教祖生神金光大神の大恩が分かる。その大恩が分かる所からです、ならどういう事になってくるかと、大恩が分かるから神恩報者という事になるのでしょうもん。いわゆる、合楽で今年言っておる「お役に立ちたい」。どうぞ、「世のお役に立たせてください」という祈り、願いがそこに初めて本当な事になってくるわけなんです。ね、天地の大恩が分かるから、または、皇上の大恩が分かるから、教祖生神金光大神の大恩がわかるから、その、教祖生神金光大神、天地金乃神の大恩に報い奉らなければおられないという止むにやまれないものが生まれてくる所から本当の信心、いわゆる真の信心が出来てくる。為にはもう繰り返し繰り返し「習うより慣れよ」という生き方を一つ行の上に現していかなきゃいけないということが分かります。どうぞ皆さん今日の御理解を頂きよって、なら、自分な今日はこげなんことお願いしようと思いよったばってんお願い出来んという事じゃ無いですよ、いわゆるそこん所、玉水の湯川先生の生き方でいったらいい訳なんです。ね、お取り次ぎを願うという事はね、現在こういう難儀な中にあるのですという事を願うのですよ。ね、そこん所を例えば牛馬の事に至るまで実意をもって願うとはそういう事だとこう思うです。ね、いわゆるお取り次ぎを願う、後は神様にお任せするという事なんです。そういう願い、同時に「習うより慣れよ」という所を繰り返し頂かしてもろうておかげをうけていかなければなりませんね。私、今朝方お夢を頂いておった。昨日十三日会のなかばから若先生と末永さんと二人で熊本の松村さんというお宅に、かいしきをされましたから、御霊様と神様の奉祭式があった。洗礼式です。ほんで、あちらからお迎えに来ておりましたから、あちらにまいりました。昨夜帰りましたのがもう十二時なかばだったでしょう。皆休んでおりましたから私、道中の事願いながらここでご祈念をしておりましたら帰ってきました。ほいで、又、お茶でも一服あげましてそれから帰られるのを見送って休ませて頂いた。そしたらお夢の中にですね「私がその松村さんを送りにでているところのお知らせを頂いた」、それが電車に乗って、帰りよるとを私は普段着なような格好で送っていっとった、それで、その電車に乗って自分も乗っとった内にですねその電車が動き出してしもうた、はーこうしてやっぱこの電車は熊本行きたいなて言いよる、あらこれあんた合図もなんもせんなら出て行きよる、これ私はどうするか、なら次の駅で降りたらいい。そして又こちらへかえってくる、そういえば、そのままで送りきとったもんですからお金を持っていっていない。だからねもう松村さんお金を貸して下さいち、帰りの電車賃を、をいうたらその松村さんが、松村さんの横に品の良いおじいさんが一人、あらこんな人がおんなさったて、こんな人、と私も思うたけどやっぱ一緒のようである。松村さんとそのおじいさんと二人が、そんならそのおじいさんがあの60円あげといたら良いだろうとこう言われるんです。だから、私は60円で足るか足らんか分からんけども、60円を借りた。その電車の中でもう様々なこれがこの世の中の縮図であろうかと思われるような様々な事柄や問題があった。もう電車なんかに乗っておりますと様々な人が乗り合わせておりますね、本当に世の中の一つの縮図を見るような感じがする事が皆さんございますでしょ。中に一人40、4、5の婦人が乗っておりました。もう、それこそ、着ているもの、身に付けておるもの素晴らしいもの。私はびっくりした事がですね、入れ歯をしておられるのはね、その入歯がひすいの入歯である、ひすいの入歯なんて初めて見たと思うて私はその婦人を見よった。ひすいちゃ真っ青なね宝石です。そのまあ宝石であるひすいが一番高いと言われている、それを入れ歯にしておる。変わった人がおるもんだと、私思って見よったらですね、私に一人語りのようにして言われるのです、「内の娘が久留米に行っとりますもんの。」ちゆうわけです。その娘が心配で心配でたまらんで行きよるが、もう行きよる間が心配でたまらんと言われるんです。どうゆうことですかというて聞いたらです、聞いたら一つも心配ならない事を心配しておられる訳ですよね。私は夢が覚めてからそれを思いました。世の中に、それこそ入れ歯にひすいの入れ歯をするほどしに、それこそ( ? )のようにしておれるような身分の人がです、この心配だけはどうにも出来ないという事なんです。それ心配、私が聞いたら心配せんでいい事を、もうそれこそ痩せ細るように心配しておられるです。はーここに信心が必要だな、信心の世界に、本当に信心の世界にあるならばです、こんなことを心配せんでもよかろうのに、苦に病まんでもよかろうのにと私は思いよるようなお夢であった。そしてです、その私がそこで60円借りたという事、帰りの車賃にですね、あらー昨日ね、いや、今朝方、今日の言葉でいうなら、恵介君がお夢を頂いたというお夢の中に60円が出てきとることなんです。皆さん、私昨日13日会でお話しましたから、けれども、知ってない方も為に簡単に申しますとね、昨日ああしてえー、ま、お婆さん、お母さん一緒にお父さんとお参りが、朝参りが初まられて丁度一週間ばっかり前が、一年間お参りし続けたんですよ。そのお礼のお届けがあってぐらいでしたが、これからも一つ朝参りを続けたいというて、ま、意欲を燃やして、あのようにして参ってくるわけですよ。ね、昨日、お母さん達先に帰っとってくれと、今日は親先生にどうでも僕が直接お届けせんならん事があるからといってその、残っとりました。そしてお届けをする事がです。ね、僕は今朝からお夢を頂いたというのである。ね、それがね、そのかいしょ、かいしょちゅうけんなんの事じゃろうかと思いよったらあの、よう怪獣ちゅうのがあり、あ、怪獣映画ちいうのがあるでしょうが。あの怪獣が出てきたそうですたい。それでね、もうその、ま、椛目の御信者さん方だろうと言う訳、中ではっきりしとるのが、長瀬のおばしゃまちいうわけ。長瀬のおばしゃまがもう、皆、もう怪獣だからわーわ言いちから逃げよんなさる所をお夢頂いた。どういうわけで長瀬のおばしゃまがそんなにはっきり恵介君のお夢の中に現れなさっただろうかと、それも、逃げ惑うておられるという事。それは、長瀬さんという意味じゃない、長瀬文子という事は長い間浅い信心を続けてきた人という意味なんです。例えていうならば、乞食信心、おかげをもらいたい、おかげをもらいたいばっかりの信心が何十年続けられておるというのが、これは浅い信心だと思いますよね、長瀬ということは、瀬ということは浅いと言う事、ふみこのふみという字はこれは、分という事。ね、分という事はこれは長く続いてきたというような意味だろう。ね、ところがですね、その恵介君だけがその怪獣に立ち向かっている訳。そして、その恵介君がその怪獣に向かっていっておる事がです、もう他のものは追うなと、俺がお前にこの片腕を食べさせるち、この片腕をやるから、もう追うていくなといいよるお夢であった。ね、あれは、( ? )ていうですかね、あのだるまのお弟子になった人が、ね、弟子入りを頼んだ。所がどうしても弟子入りを許さなかった。そこで、自分の腕を切り落として、腕を引っさげて、弟子入りをこうたという話がございます。大変な事だと私それを聞きながら思うた。そして、よくよくその怪獣を見た所が、その怪獣には足がなかったというのである。そして、僕は久留米に帰ってから焼き鳥やでその60円がた焼き鳥を買うちから、その、焼き鳥を60円がたですね、買うてその怪獣に食べさしよるというお夢じゃったと言う訳です。その60円と私が電車の中で借りたという60円が( ? )。どう言う事だ、私は、その恵介君その理解をつかえたときにも、60円という事については気が付かなかった。また、その長瀬文子さんという事にも気が付かなかった。今朝改めてその事をこの御理解を頂いてです、浅い信心ただおかげもらいの信心だけが何十年続いておってもいけないという事。何故って、いよいよの時にあわてふためいておるという事。恵介君が頂いておるその、その御教えはです、この世の中にね、恐いという事は決してないという事。恐いと見えるのは迷いだと。素晴らしい事なんですけどね。分かるか分からんか知らんけれども恵介君その事を話した。恐いと思うのは神様が度胸を付けて下さろうとする為の神愛であった。ね、「幽霊の正体みたりかりょう花」であって、決して幽霊というものここにおるものじゃないんだ、その場に行って見て初めて、かりょう花という事が分かるようにです、側まで実際行って見て、それが神愛であった、神様のいわばお心であったという事が分かるのだ。この世には怪獣、ゴジラもいなければ、怪獣何々もいないのだと。けれども、怪獣が出てくると皆が逃げまどうておる、もう難儀は嫌だというて逃げまどうておる。これは、浅い信心が何十年続けられてもです、やはり、そこから一歩も出る事ができないんだと。ね、為に本気でです信心をしなければいけないという事。60円という事はですね、六という事は( ? )の禄、禄高の禄です、ね。大名、えー、(何百石禄?)という風に禄をはるとこうもうしましょ、あの禄。だから禄という事は「御徳」という事なんだ。ね。そうしてです、私は又昨日の13日会の時にでました、話を思い出させて頂いたんです。ね、それを聞きながら私は信徒会長が、秋永先生が話しておりました事を聞いて、はあーそれこそ( ? )哲学だと私は申しましたがですね、( ? )さんが言われる事、「信心に一生懸命打ち込むという事は、ね、信心に打ち込むという事は、ね、例えば、田に10俵信心の無い人が出来るならば、信心させて頂くものは11俵もらわんならんといったようなことあってはならない」ちいうた。それはむしろ90になるかもしれん、80になるかもしれない。何故かというて、信心の世界にいわば百姓する時間を信心の時間にいわばおいとるもんですから、そりゃ、少なく出来るのがあたりまえ。それを、皆が信心すりゃ、まさか、10俵ならべて信心しよるけん11俵いただかんなんといったような根性の信心じゃつまらんち。そして10年経ってみれ、20年経ってみれ、10俵20俵のことじゃない、大変なこういうおかげになっておるんだと、自分の事をいうて話されたという事でございます。素晴らしい事でよねこれ。私が今朝の夢の中に現れておりますようにですね、私は、松村さんを送りすぎたわけです。ね、もう玄関でさよならちいうてよかと、わざわざ久留米までも送りいっとるわけ。しかも、電車のなかでその動くともきずかんようにして送りいった、いうことは送りすぎたということは信心がすぎたという事なんです。松村ということはもちろん松です。ね、信心の事でしょう、桂松平先生、安武松太郎先生、石橋松次郎先生というようにです、いわゆる、私はその、松の信心をです私が人よりもしすぎたんです。少し。ね、皆さんが一生懸命合楽に参られるから、自分方の畑には草がいっぱい生えとる。肥料もまだやりそこのうとる。為に、よそよりも収穫が少ないからそこによそよりもいわば逼迫してくる、貧乏になってくる。いわゆる信心にのぼせすぎたちゆうわけなんです。けれどもその、信心にしすぎたからこそ60円が借れたんだという事。そうでしょうが。ね。信心がしすぎた所からです、生まれてきとるものが、6なんです。ね、お徳を受けたらねもういわゆる私共が汗水流して一握りのこれだけの事(?)神様の一握りというたらどれだけあるか分からん、久留米の初代がそういうておられます。それにふれることが出来た、ね、だから過ぎた、過ぎるということはどういう事かと、ということはです、やはり、おかげ信心から本当の信心を目指すという事だと私は思うんです。同時に今日は私はそこん所、習うより慣れよとこういう事を申しましたね。教えを頂いてその教えに慣れてくるという事。そして、本当の事が分かるから、怪獣が出てもあわてんですむのである。そうでしょ。ね、どのような事が起きて来ても驚かんですむ信心、本当な事が分かるから驚かんですむのである。そういう私共は信心を目指さして頂くという事。「神国の人に生まれて、神と皇上との大恩をしらぬこと」ね、私共はいわゆる神の世というか神の世界にこうやって生を受けておるという事は事実なのだ、けれども、それがね、実感として神の世界に、神様のおかげを頂かなければここ一寸が動かれん私達であるという事をです、いわゆる、繰り返し繰り返しの稽古のなかから悟らしてもらう、分からしてもらう所からその神に対する所の報恩、感謝の生活が出来るわけです。ね、それが頭でわかっておるだけじゃから報恩( ? )、いわゆるお役に立ちたいといったような事になってこない。私は今日は何が尊い、何が有り難いというてもですね、本当にこうやって一生懸命ご祈念を例えばするなら、ご祈念の内容がです、これが自分以外の誰かの事の為に一生懸命打ち込んでおる姿くらい美しいものはないと思うです。ね、同じ助けて下さいでも自分以外のものをです、どうぞ、というて一修行でもさせて頂こうというものの姿が美しい。ね、そういう私共は信心、それが私はお役に立つ信心だと思うです。願う事はもう自分のことばっかり、という所からです、ね、それが神の大恩が分からしてもらう、金光大神の大恩が分からしてもらう、親先生の大恩がわからしてもらうから、親先生に報い奉るという、昨日神愛会、あの、13日会でも申しましたように、ね、甘木の人達は、神恩報者という事を、親の恩に報い奉るというております。その親が金光大神に通じ、天地の親神様に通じておるから同じ事だと。私は御理解この、御理解じゃない、御神戒の第一条はですね、そういう意味に頂くべきだと思うんです。ね、神恩をまずいわゆる、習うより慣れるという所からです本当に神様の恩が分かり、ね、金光大神の大恩が分かる、そのご恩に報いさせてもらわなければおられないという心、そこにです、真の道にある人の生き方、ね、真の人にならせて頂くことを願いとしている私たちの信心があると思うのです。ね、神の大恩を知らぬから互い違いになると又の御理解に教えておられますように、神の大恩を知るところから互い違いどころか、どうぞ下さい、くださいというて、例えば食を乞う乞食のように、おかげをもらうと言う事にだけに地道をあげる信心から、ね、本当の信心を分からせてもらう為には、そこにはやはり、ちいとはぼうけてごさるじゃせんじゃろかちゅうぐらいにです、氏子もなければ分かるはずがない。ね、けどそこにです深い深い意味があるでしょう。いわゆる私はそれ、それこそ( ? )という風に申しましたようにです、その深さにふれていくところからです、ね、深い信心内容というものがね、いよいよ深いいわゆる古屋さんが昨日言っておられます、ね、息詰まりのない信心。その、息詰まりの信心こそどのような場合でも息詰まらんですむほどしの信心こそ大きな信心だとその大きな信心に大きなおかげが約束されないはずがない。その大きなおかげをもって、大きなお役に立たさせて頂こうというのがま、今年私共が言うておるわけなんです。そういう信心を頂きたいと言っているわけです。ね。おかげ、御利益を手がかりとして分かる神様はもろい。本当なことを手がかりとしてすすませて頂く信心こそ私は真の信心だという風に思うのです。どうぞ。